狩野一信 五百羅漢図の入荷情報
2011年 小学館
江戸本所林町(現在の東京都墨田区立川)に骨董商の次男として生まれた。幼少から絵を好んだらしい一信は、父の勧めで堤派の絵師に就いたといわれ、一信の就学時期と同時代に活躍した堤等琳 (3代目)を師匠としたと想定している。人物の筆勢の強い輪郭線やアクの強い表情に両者の共通性が見いだせる。
了瑩は嘉永6年(1853年)に増上寺に全100幅にも及ぶ大作「五百羅漢図」制作を発願。翌3月了瑩は病のため源興院を退くが(同年9月没)、後継の慎誉亮迪上人が「五百羅漢図」事業も受け継ぎ、制作資金3000両を用意。一信は大覚寺から、安政3年(1856年)に法橋、文久2年(1862年)法眼を得ているが、これも了瑩上人、または亮迪の後ろ盾があったか、あるいは大覚寺の末寺で一信の作品が残る成田山新勝寺の関与があったことが想定できる。
一信は亮迪と同行して、鎌倉光明寺・円覚寺・建長寺の羅漢図や、本所羅漢寺の五百羅漢像などを自作に活かすべく拝観した。他にも一信は、増上寺の学侶・養鸕徹定や日野霊瑞、大雲(義寛)に指導を受けている。彼らは、日本の羅漢図では伝統的規範となっていた、中国の李龍眠や張思恭、日本の明兆や雪舟らの羅漢図は、法衣や器物が中国のもので羅漢本来の姿を表していないと批判し、インドの古儀に適ってないといけないと説いた。ただし、彼らの言うインドの古儀の中身についてはまだ検討されておらず、「五百羅漢図」には当時庶民に流布していた仮名書き・絵入りの『往生要集』版本の影響も指摘されているが、幕末明治という動乱期における異国や異界への意識が反映されていることが予想される。
しかし、一信は多年に渡る大作の制作でうつ病にかかり、「五百羅漢図」完成間近(96幅、一説に90幅または80幅)で数え48歳で没する。遺体は増上寺の子院安蓮社に葬られた。
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